三浦豪太・臨死体験

(5月27日三浦豪太がベースキャンプへ帰着した翌日に書きました。)

デキサメサゾンという薬がある。
この薬は、少し前に話題になった山の映画(バーティカル・リミット)などでも紹介されたが、ステロイド系の脳浮腫を改善させる薬だ。
そして、この聞きなれない薬が、何故、5月25日、12時30分にエベレストC4上部、標高8200m地点にあったということが、今回、僕が生還できた理由に一番関わっているのだ。

5月24日
事の始めは、僕が思い出せる限り、5月24日、C3(7300M)を出発してからの事からだ。
山頂へのアタックを開始4日目、C3まで快調に登ってきた僕にとって、C3(7300m)からC4(8000m)の行程は自分にとって、秘かなチャレンジだった。
過去の登山で、僕はC3からC3の上部の7500m地点まで、無酸素で登っている。
シシャパンマ登山では7300mまで、そしてチョオユーでは7000mまでが無酸素で登攀していた。今回、僕は自分の記録更新を目指して、ピストルロックといわれる、ちょうど7600m地点にあるピストルの形をした岩盤帯まで、無酸素で登る考えでいた。
遠征においての僕の役目は、もちろん父のサポート - 父の心拍数に乱れがないか、不整脈がないか、などを常にモニターして万が一の対応にあたることだ。その父は毎分3リットルの酸素を吸って登っている。
前日まで好調に登っていた僕は、父がいくら酸素を吸っても追いつける自信があった。
ところが、ちょうど前回の7500m地点になると、ついていくのがとても辛くなってきた。
それまで50%の力を出せば、父とのペースがちょうど良かったのに、突然70%、80%、90%の力が必要になってきて、それに合わせて力を振り絞る。
これは高度の影響だ。
高度が上がるにつれて、酸素が少なくなるのは当然だ。だが、補助酸素を吸っている父はそれほど高度の影響を受けない。父が早くなったのではなく、身体に酸素を取り込めなくなった自分が遅くなってきたのだ。
そうなると負担がかかるのが肺。どうにか目的のピストル岩までついたときには、今まで使ったことのないような肺の部分を使っていた。

そこから酸素を吸ったのだが、どうも肺に違和感を感じる。
C4(8000m)に着いた頃には、しっかりと酸素を吸っていたが、それでも全身がけだるい。
もちろんC4まで登ること自体大変だが、以前よりも確かに高度の影響を受けているような気がした。

C4到着は午後3時30分。
C3からの行動時間は9時間。到着は思ったより遅かった。
その後、父とテントに入り、水作りに専念しようとしたが、ここでひとつ問題が発生した。
それはもともとアタックには8人のシェルパを考えていたが、今回のメンバーにまだ南側からエベレストを登った事がないシェルパが2人いて、彼らたちもアタック隊に加えてほしいというのである。僕達が登るには撮影機材も含めて8人のシェルパで充分だ。10人ともなれば、登頂ボーナス追加されてしまう。しかし、彼らは10人のサポート体制で、8人分のボーナスでも構わないという。
この申し出はとても嬉しかった。
ただ、考えなければいけないのが、酸素ボンベの量である。登頂アタックには重い酸素を計算してサウスコルまで上げているため酸素の量が足りるかどうかを日没まで考えなければいけない。
結果、先日登頂に成功した山本隊の酸素も使える事になり、彼らが少ない量の酸素でもサポートする意思があるという事もあいまって、10人体制になった。
僕は交渉をしながら嬉しくなってきた、エベレストという命がけの現場で、これ程のサポート精神と自分の仕事に誇りを持ってついてきてくれる若いシェルパがいるという事実を。
しかし、この話し合いでいつの間にか日没が近づいてしまった。
急いで、水作り、BCとの交信、心電図、写真の配信、夕食などを行わなければいけない。
夜になると突然マイナス10度以下になる。
しかし、水作りはこの高度では命にかかわるので必ず行わなければいけない。外から割ってきた氷河の氷をEPIガスで溶かす作業を夜の10時まで行った。
そして8000mの世界で一番高い峠で、酸素を吸いながら寝る。
しかし、酸素を毎分2リットル吸ってもSPO2(血中酸素濃度)が60を超えない。これはおかしいと思った。咳にも少し血の味がする。
今日、ちょっと無理したせいかなと思った。しかしこれくらいは酸素を吸えば治るのだろうと思いそのまま寝た。しかし、また何度か血味の混じった咳をする。

5月25日
朝起きると、清々しい朝だった。
今朝まで酸素ボンベを手放せない状態だったが、やっと酸素がなくても外に行っても違和感がないようだ。昨日までの状態が回復したように思えた。めったに見られない朝焼けのエベレストや朝日が彩るサウスコルの影が、クンブ地方一帯に立ち込める雲に投影される景色に感動し、朝早くから写真を撮っていた
準備をして、8時30分にC4を出発。
登りはじめて数分、酸素マスクの上からつけているサングラスが曇る。しょうがないからゴーグルに替える。しかし、ゴーグルのサイズが合わず、ストラップを縮めようと思ったらストラップが外れてしまった。これを直している間に父達はどんどん先に行ってしまう。
今日は酸素を吸っているので簡単に追いつけると思ったのに、何故か父との差はどんどん広がってしまう。
こんなはずではないと思いつつも、一生懸命歩く。
父は途中で待っていてくれたが、歩き始めるとまた差が広がってしまう。いくら酸素を吸い込もうとしても酸素は肺の中で空回りしているみたいだ。それとも父の足が速くなった?
色々な疑問を考えながら一生懸命ついていく。
氷河帯を越えて、急な岩盤と雪の混じった斜面に入る。
僕の登攀スピードはどんどん落ち、父は先に行ってしまう、一生懸命呼吸を整えようとしたが無駄で、息を深く吸い込むと肺が痛い。
僕は毎分2Lの酸素を吸っていた。父も同じはずだ。
どこかがおかしいと思ったのはこのあたりだ。
しばらくすると五十嵐さんが待っていてくれている。どうやらスピードが遅く咳き込んでいる僕を心配して待っていてくれたようだ。
五十嵐さんのところまで登ると、ちょっと酸素をチェックしてくれないかと聞いた。
酸素の残気ケージにはまだ150気圧残っていると言う。僕は今のままだと苦しいので、現在出ている毎分2Lから2.5Lにあげてくれないかと聞いた。
僕は新しい酸素設定にする時、いつも必ず残りどれくらい酸素が吸えるか計算する癖がある。そうしないと目的地へたどり着くまで酸素がもつかわからないからだ。
計算方法は (ボトルのリットル数×残気圧)÷毎分流れる酸素=残りの分数、と計算できる。
しかし、僕がつけている4リットルボトルの残気圧を掛けようとした時点で頭が回らない。
計算するために呼吸を整えようとするが呼吸はいつまでも激しい。
これはちょっとおかしいと思い、五十嵐さんに、今の毎分2.5リトットルから4リットル(最大)まで上げてくれと、ザックを五十嵐さんの方に差し出して前に屈んだ。
すると、そのわずかな動作で後頭部から背中、両手、両足まで突然すーっと冷たくなり、何も感じなくなった。
なにが起こったか認識できず、力なく隣あった岩にへたり込む。
意識が遠のいた。
目の前にある世界が突然揺れる。
目の前に広がる景色かどこか遠く違う世界に感じる。
立ち眩みとも違う感覚だ。自分がこの場所にいないような感覚。意識を保てない。
多分、時間にして10秒ほどでまた元の世界に戻るが、時間の感覚がないのでどれくらいかはっきりとしない。ただ五十嵐さんのリアクションをみてそれくらいかなと推測する。
その感覚は恐ろしく、痛みはないがその分、自分の意識が体から離脱する感覚だった。
両手と両足にはまだ鈍い痺れがある。
戻った意識の中で8000mの高所でこれがどれほど危険な事か察知する。

上からC5を作り終えたシェルパが何人か降りてきた。
五十嵐さんに、お願いだからシェルパをつかまえて、僕を降ろしてくれるように頼む。
この時点で足にほとんど力が入らないのだ。五十嵐さんはまだ追加の酸素を持ってきて、僕が上へ登れるようにするか考えているようで、今、僕の身に起こっている非常事態を把握していないようだ。
様々な高所の体験談や高所医学の本で知っている症状。
低酸素による<脳浮腫>
脳浮腫は高所の影響で毛細血管から体液が滲み出て、脳内に溜まって脳を圧迫する状態になり、判断力や意識にも影響する。緊急に対処しなければ死に至るケースが多い。
幸いにも、まだ意識がある。その意識の働いている部分が早く降りろと命令する。
「早く降りろ」と、
五十嵐さんに、自分の状態を説明し、降りる事を告げ、僕の持っていた無線を渡す。五十嵐さんは無線の周波数を聞いているが、僕はどうやってもその番号を思い出せない。この1ヶ月間ずっとその番号を使っているのに!!!
無線は僕がほとんど管理して新しい無線が入るとその周波数を僕が調整する。いつもなら簡単な作業が無線を見ても何も認識できない。
それよりも僕にとってすぐに降りる事がすべてだった。
シェルパに抱えられるようにサウスコルに向かう

途中、毎分4リットルの酸素が多少効いてきたのか、少し足に力が入るようになるが、サウスコルが近づいてくると足がふにゃふにゃになり先ほどの後頭部の感覚がなくなる感覚があり、意識が遠くなる。
サウスコルの適当な岩にシェルパが僕を座らせてくれる
クライミングサーダーのダワタシが心配してきた。

僕は脳浮腫に利くステロイド系の薬、デキサメダソン=デカドロンを取り出すように指示をした。
デカドロンはもともと僕が姉から渡された「ラストブレス」という本で読んだ事からはじまる。
その内容は登場人物がいかに高山病で死んでいくかという事を生理的に克明に模写したものだった。その中に肺水腫から脳浮腫になったクライマーが打つのがこのデカドロンである。
知り合いのクライマー、竹内さんもエベレストで脳浮腫になり死の淵をさまよっていた時、彼をこの世に戻してくれたのもこのデカドロンだ。
本を読んだ僕は、アタックにこの薬を持参することにして、父の主治医である小林先生と相談して、筋肉注射の方法を教えてもらっていた。

僕はシェルパに声をかけて僕のリュックを目の前に置いてもらい、そして手に力が入らないのでシェルパにリュックのものを出してくれと頼む
注射を用意、デカドロンの容器を割って注射器に吸い込み空気を抜いて自分の脚に差し込む。
筋肉注射はそのまま筋肉に差し込む。血管注射の場合衣服を脱いで血管を捜さなければいけないが、筋肉注射の場合衣服の上からそのまま刺す。これはかなり非衛生的で乱暴なやり方だが、周りにシェルパしかいない8000mの峠で意識が遠のいていく状態ではしかたがなかった。
ダウンパンツの上からなのでどれくらい刺せば脚に届くかわからないが、とにかく「ブスッ」と痛みが感じるところまでさしてデカドロンを注入する。

5分ほどするとゆっくり手足の感覚が戻ってくる。後頭部のしびれも薄れてきた。
意識もそれまでよりもはっきりしてくる。
次にリュックの中にあるパルスオキシメーターを出してもらうように頼む。
指を入れてみるとなんと52%!!!(通常は90%程度ある)酸素は先ほどから4リットル出ているはず。運動もしていない状態では異常な低さだ。
肺の機能が正常に働いていない事を示している。低酸素により脳の毛細血管に負担がかかり、脳浮腫となっていったのだろう。

この事態に冷静に対処するために、衛星携帯電話で日本の事務所に電話をかけた。
デキサメダソン=デカドロンが徐々に効き、ある程度物事を順序だて考えられるようになってきた。先ほどの意識が遠のく感覚も薄れる。
事務所で待機している小林先生に指示を仰ぐ。
小林先生に現状を伝える。すでにデカドロンを打った事を伝える。
先生からは、すぐに高度を下げて、デカドロンを2時間後にまた打ちなさいという事だった。

高度を下げる事を今度は頭の中でシュミレーションしてみる。
今いるサウスコルから安全な高度に降りるにはC2あたりまで行かなければ行けない。その為には昨日まで通ってきた平均斜度45度のローツェフェースを降りる事になる。
今の自分の状態では無理だ。シェルパのサポートと酸素がたっぷりいる。

僕はダワタシに
「I need to go down!!!」
とシェルパ二人をつけてC2まで降りる意思を告げた。
脳浮腫の場合、最良の対処方法はとにかく高度を下げなければいけない。
心配なのは先ほどの状態にいつ陥るかわからない事、そして今でも痺れている手足に力が入るかどうかだ。
僕が持っていた衛星携帯電話と父用の不整脈の薬を明日アタックの時のために、五十嵐さんに渡してもらうようにシェルパに頼み、酸素ボンベ2本と水をシェルパに持ってもらい、すぐに下山する決意をするが、その間にも何度かまた自分自身が違う世界に引き込まれそうになる。

胸には先月生まれたばかりの赤ん坊の写真がある。
それを握り締め意識を集中しようと努力する。
こんなところで死んでたまるかという思いが強くなる。

ここからがちょっとオカルト的になるのだが。これも僕の壊れた頭作ったものと割り切って聞いてほしい。

僕がC2へ降りようと立ち上がると、まだ頭がぼやっとした状態だった。
目の前の視界も歪んでいる。
前にはニマ・シェルパ、後ろにはペンマ・シェルパがついていてくれる。
二人に挟まれるようにサウスコルのトラバースを歩くのだが、もう一人、別の気配が僕のすぐ左に感じる。それは男性で僕に一方的に話しかけるのだ。
声は低く、何度もせっかちに
「早く降りろ」
といっている。それは日本語ではっきりとした声だ。
気配だけするものの、左側を見よとするとすぐにさらに左後ろに行ってしまう。
僕が何度も左側に振り向くので、後ろのシェルパが怪訝に思い、僕のほうに近づいてくる。
その度に、Nothing(なんでもない)といわなければいけない。

その<男>はせっかちに何度も容赦なく、「早く降りろ、足を前に出せ」と、執拗に言うが、先ほどから右手と右足が思うように力が入らない。何度も躓いて転びそうになる。サウスコルのトラバース中に転んだら、C2まで一気に滑り落ちるだろう。そうなればバラバラになるだろうな・・・そういえばお父さんはここを滑ったのだな・・・そのとき何を考えていたのだろうか…と思いながら歩く。
するとその声も「バラバラになるぞ」と、いってくる。

たまに声を無視して座り込む。あまり急ぐと呼吸が間に合わず、また意識がなくなりそうになるからだ。それでも執拗にその声は
「休むな、早く降りろ」と、命令口調で言う。
トラーバースを終え、ジェノバスパーに下る斜面にきた。
ここでセーフティーの8冠(命綱・カラビナ)を付ける。右手があまり動かないのでシェルパに頼んで付けてもらう。いつもは右手で押さえの紐を持つのだが、右手に力が入らないので左手用に8冠をつけるようにいう。

ジェノバスパーの岩を越えた時点で一息つく。ルートはそのままピストル岩からローツェフェースに続いている。
もしかしたら助かるかも…と思う。
そこからは先へ進めば標高は下がっていく。急斜面だが、確実に標高は下がる。
そこからは、先程の声の気配がまったくしなくなった。あたりを見回しても前と後ろにシェルパがいるだけだった。
いったいあの声はナンだったんだろうと思う。存在感のある声、気配のある声。見えはしないがはっきりとその<男>のアイゼンの靴音までわかる程の気配だった。
よく高所で遭難した人が幻覚や幻聴を経験するという、山の実体験を綴った「エピック」と」いう小説に<コンパニオン>(相棒)という形で登場した幻覚上の人物がいた。もしかしたらそれに近い存在かもしれない。

5時間かけてローツェフェースを下る。
ローツェフェースを下ると、周りの酸素が多くなってくる。
酸素が多くなってくるとだんだん考えも大きくなってくる
もしかしたら自分は諦めずに山頂へ向かって頑張れたのではないかと・・・。

父達がこれからアタックを行うというのに、自分はサポートをせず逃げたのではないか。
これまで、この登頂の為に何年もかけて準備をしていたのに、ここで駄目になってしまうのではないか・・・。

不思議なもので、さっきまで命が助かればいいと思っていたのが、状況が好転してくると、激しい後悔の念におそわれる。

しかし、その後、ローツェフェースを降りきったとき、僕の危機を聞いて山本隊の山本さんと加藤君が僕の様子を診に来てくれた。
彼らは高所、特に8000m以上で脳浮腫になった人のほとんどが悲惨な結果に終わっているという。そんな中、僕がこれほど早くローツェフェースを降りて高度を下げ、自分の脚で歩いている姿を見てびっくりしていた。
ほとんどの突然死や高山病での事故は判断の遅れと処置の遅れで起こるという。
だから、僕が無事に降りてこれた事を本当に喜んでくれた。
僕はそれだけで救われた気がした。

その後、BCにいる志賀先生と無線で交信をしながら、僕の状態を診断してもらった。
僕は下山時から右足、右手に違和感を感じていた。
力が左と比べて入らないのである。
数十個ある問診とテストを行った。
痺れは右手の甲と右足の小指側にあった。
握っても右は左に比べて弱いし、右足もバランスがとりにくいという事がわかった。
今日はこういった危機的なイベントがあったため、多め酸素を吸って寝る事にした。
なんと4Lだ。これは全力で8000m級で運動する時に使用する量に匹敵する。
4Lの酸素の多くは無駄に流れ出るが、それでも脳になんらかのダメージを受けた人は酸素が豊富に必要になってくる。その為、無駄になっても多く出したほうが良いという。
しかし、僕達にはC2にはそれだけの酸素ボンベがない。その酸素も山本隊が分けてくれるという。至れり尽くせりだった。
山本隊長は困った時はお互い様だという
それでも、過分な施しに感謝してもしきれない。

横になり寝ようとすると、今度は肺がゴボゴボといい始めた。
どうやら、肺水腫も患っているようだ。
夜中に無線で志賀先生を呼び出してしまった。何か肺水腫に効くいい薬でもないか聞いてみたかった。するとアダラートがいいという。
アダラートは常備薬で持っている。肺の血管の血圧を下げる薬だ。
僕がもっていたのはアダラートLといって効きが比較的に遅い薬だ。
その為、今の状況を改善するには横にならずに座った状態で、薬が効いてくるのを待つのがいいという。

今日、発症したばかりの脳浮腫や肺水腫なので油断ができない。兄に1時間ごとに無線を入れてもらい、容態の確認をお願いした。
今夜11時には父達がエベレスト山頂へアタックをする。その為BCもアタック情報をモニターする為、11時からずっとスタンバイして報告を受ける体制にある。
僕は、父の成功を祈りながら、その側にいれない事を強く残念に思った。
責務を果たせない後悔と一緒にまた頂上に立てない悔しさが溢れでるが、今日自分の身に起きたことを考えると生きてC2まで降りられた事自体、奇跡に思える。

もし、あそこで無理に滞在をしたらどうなっていただろう。
多分、意識がなくなり、サウスコルへ担がれるまではいいが、そこから先はシェルパでもすぐに僕を下ろす事ができなかっただろう
もし、デキサメダソンを持っていなかったらどうなっただろう。
あの薬は、本でたまたま読んで、医師と相談して手に入れた薬だ。
しかし注射だけに、今までの遠征では持ち歩く類の薬ではなかった。
小林先生が、一日だけBCにきており、そのレクチャーをしてくれたからこそ、持ち歩いていたのだ。
ベースキャンプに戻ってから志賀先生に言われた、
「もし、あの場でデカドロンを注射していなかったら、120%死んでいた」と、
まさか自分でも筋肉注射を打つとは思わなかったが、あの状態では躊躇いはなかった。

そして、あの不思議な声。せっかちで何度も執拗に言ってくるが、そのおかげでもしかしたら自分は死ぬかもしれないというムードを取り払ってくれた。何かに支えられている感じといっていいのかわからないが、とにかく僕の左側に常に寄り添ってくれた存在だった。

翌朝7時33分、父、五十嵐さん、村口さんは登頂に成功した。
75歳の頂上、それまで曇っていた天気は、登頂の瞬間は晴れ渡っていたという。
5年前に見れなかった景色を3人は見れたのだ。
僕はそのニュースを複雑に受け止めた。僕がその場にいない事が悔やまれた。
悔やまれはしたが、同時に自分であの時に降りる判断を瞬時にできた事も素直に納得できた。
あとはみんなが無事にベースキャンプへ帰ってくる事を心のそこから祈っている。

高所での事故はある。
その多くは「突然死」という一言で片付けられてしまう場合が多い。
しかし、高所の突然死の多くには明らかな前兆があり、その前兆はその人自身にしかわからない。
多くの場合、その前兆を「登山」という目的のため、責務のため、あるいは自分のプライドのため隠している場合があるのではないか。または、単純に高所の知識が少ない為その前兆に気がつかないことがあるのではないか。
今回たまたま僕には降ろしてくれるシェルパが近くにいて、僅かながらも意識をもってデカドロンを注射する事ができた。そのおかげで意識を保つ事ができ、自分の脚で歩いて降りるまでにいたった。そして相談できる医師とコミュニケーションをとることが出来、客観的に状況を把握してもらい適切な処置をとることが出来た。
今回の事で、高山病、脳浮腫、肺水腫というのは、今まで僕が思っていたほどゆっくりおきるプロセスではないことを実感した。むしろ、急激に発症して急激に容態は悪化する。
そのスピードはほんの数分だった。
現在は誰でもエベレストに挑戦はできる。
しかし、やはりエベレストはエベレストである。
その憧れと、絶対的な頂上への魅力、この世とは思えない美しさの裏にそれ同等以上の危険が潜んでいるという事を身にしみて体験した。
ちなみに先日、エベレスト無酸素登頂を試みたスイス人が亡くなった。
エベレストの死亡率は今でも9%である。

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