遠征日記 3月27日
<三浦雄一郎日記>
ディンボチェ滞在
もう10年以上前のような気がしていたが、それはほんの1年前、去年の4月だった。
その前年(06年)の12月、土浦協同病院の家坂先生による心臓アブレーション手術を行い、半年後にアイランドピーク遠征を行った。1回の手術では完璧ではない、と先生も話していた。
それ以前に話しを伺ったアメリカのユタ大学のドクターも同じ事を言っていた。
確かに手術前よりは、心臓の調子は良くなっており、術後の東京や札幌のトレーニングでは結果がとてもよく、東京のBCの低酸素室での負荷テストも、さほど問題がなかった、
術後のチェックを兼ねて、出発したアイランドピーク遠征、ルクラからパクディンで歩き始めた。
久しぶりのヒマラヤトレッキング、ペースを上げても心臓は好調、ところが3時間4時間と過ぎて、疲れがでて、気温が下がりはじめたころ、パクディンの石段を急いで登りはじめたら、突然、不整脈が出てきた。パクディンの夜は土砂降りの雨だった・・・・
翌日向かったナムチェ、ここでも6時間のトレッキング後、ナムチェの手前で不整脈がでた。
このときは、手術前より不整脈が収まるのが早くなったけど、タンボチェでは特に気をつけた。
体を冷やさないように、食べ過ぎないように ・・・ところが、夜しっかり水筒湯たんぽで身体を暖めて、ぐっすりと眠れたと思ら、夜中にかぶっていた寝袋が床に落ちてからだがすっかり冷え込んでいた。
これが悲劇の始まりだった。
翌日、朝飯のとき、ひどい寒気がして、下痢。このときに生まれて初めて血便が出た。
タンボチェからディンボチェまでのあいだ、絶え間ない下痢と休むたびに血便、体中の血がなくなるのではないかと心配するほどだった。
途中、パンボチェのバッティで一休みする - 本心はここで一晩泊まりたかった。
あとで考えると、そうすべきだったが、無理してディンボチェまで小雨のなか、ふらつく体を休み休み引きずりながら、重病人状態でたどり着いた。
一日休んでから高度順化のため、裏山に上ったけど。心臓がむちゃくちゃに乱れ、歩けなくなる。気力を振り絞っても、100歩も上れない。
休むたびにゴンが心電計を胸に当てる。
その心電図を日本に送る。するとデータを診たドクター達は一日でも早く帰れとカエルコールの連発だった。それでも無理をして、アイランドピーク、6000m付近まで行くと、もう一歩も足が前に出なくなる。
初めてエベレスト街道を訪れた1969年以来、タンボチェ・ディンボチェの間は僕にとって呪われた道だった。いつも風邪、高山病、下痢などに見舞われる。
2003年のときも、突発性の心房細動で気を失って、それを無理やりやっとの思いで、ペリチェの病院にたどり着いた。そのときは、シアトルのドクターのおかげで再出発ができた
そんなわけで、今回は気をつけ気をつけ、ナムチェからタンボチェ、そして標高4200メートルのディンボチェにやってきた。
今回はいつものテント暮らしと違い、シェルパの山小屋、バッティに泊まっている。
食事は特段美味しいとはいえないながら、ほとんど毎食、ジャガイモ、それも土がいっぱいついたものを皮ごと食べていた。
生まれてこのかた、戦争中の少年時代、食糧難のときも含めて、これほど続けて沢山のジャガイモを食べたことはなかった。
ヒマラヤのジャガイモはとびきり美味しい。シェルパ達の体力と健康も、このヒマラヤジャガイモから生まれているのかもしれない。
耕して、天にいたるといわれる段々畑、ヒマラヤ奥地のやせた土地、強烈な太陽、これがジャガイモの故郷である、南米のアンデス同様、パワージャガイモを育てている。
さらに、ヤックの糞やその他の本格的なオルガニックな肥料がたっぷりと使われている。
小粒だけど、僕にとってはケーキより美味しい。
下痢もせず、少々鼻づまりの風邪だけど、体調は良好。
ディンボチェまで、こんなに楽にあっというまに雄大とゴンたちと冗談を行っているまに、着いてしまった。そして4200mの高所でも、事前に東京で低酸素室に入っていたおかげで頭痛もない。
まず、この高所では70点くらいの体調。
3月27日、朝8時、全員でゆっくりゆっくり裏山登り。
心拍90~115、登りはじめは息切れ、心臓のちょっとした違和感があったけど、次第に息切れはしても、軽いジョギング程度。
東京で、足首に5キロの錘や背中の10キロのザックを背負ってウォーキングよりも、楽なくらいだ。去年の悪夢に比べたら、ゆっくりベースだと、軽快に登り続けられる。
産経新聞の木村さんは高山病なのに頑張ってついてきてくれる、
大変な記者魂だ。
村口さんは相変わらずトントンと好調に登って撮影をしている。
気がついたら、ずいぶん大勢のトレッカーたちが登っている。100人近いだろう。いずれも苦しく喘ぎながら ・・・我々は、約1時間半登り、無理せずそこで下山することにした。
まだまだいけるけど、体調を見るだけ、疲れをためないためにも今日の高所順応はこれまで。
おかげで昼飯をロッジで摂り、午後は読書をしてのんびりと過ごした。
夕方4時半札幌のテイネのキャンプに参加している子供たちに激励の電話をかける。
気になったのは、疲れたあと、汗をかいて体が一旦冷えると、濡れたシャツを乾いたのに取り替えて、羽毛服を着てもなかなか体温が上がってくれないことだ。年のせいだろうか。
今のところ、ユタンポ水筒で暖めるのが一番いいだろう。
そういえば父(敬三)が、年をとると、めっきり高所に弱くなるとぼやいていた。
この、高所(低酸素)と 高齢の関係がいったいどんな相互関係をしているのか、医学的に数値化できないだろうか、
例えば酸素濃度が21%ある平地で、20代の人と70代の人を比較すると、平均的に酸素摂取能力と比べて、70代の人は標高何メートルに相当するだろうか・・・
こういうことが解明できれば、高所トレッキングや登山が20代の人にとって4000mでも、60代の中高年にはプラス2000メートル、標高6000メートルに相当するのかもしれない。
これは今後、ゴンたちの高所医学的な研究テーマとして是非解明してほしい。
<三浦豪太日記>
やっとディンボチェについて落ち着いた気がする。
ここまでほとんど移動、しかも歩きが中心になっていたため、なかなか腰をおちつけることができなかった。
やはり、2~3日でも1箇所に滞在すると気分が違う。
しかし、ここはなんといっても4300mの高所。
4000mを超えると低酸素のため大概、僕は眠れなくなる (すくなくとも初日は)。
で、昨日の夜もなかなか眠れぬ夜をすごした。
しかし、眠れないのは悪いことばかりではない。
普段、僕は夜、横になるとすぐに眠気に襲われて寝てしまうのだが、高所では横になっても酸素が少ないものだから眠れない、すると高所思考モードになっていろいろ考えることができる。
高所では眠れないと考えるほうがむしろ体に悪いのではないかと思う。
眠れないことを考えることがストレスになって、自分の体調が悪いのだと暗示がかかってしまう。
考えすぎてしまうのは問題だが、たまに高所に来て眠れない夜をすごすのも悪いものではないと考えている。
昨日は今回の遠征の行く末について考えた。 今のチベットの状況、今後の展開の可能性・・・・
いろいろ選択肢を考える機会があったのでとてもよかった。
内容に関しては後々反映されるだろう。
今日の登山は裏山、4600mまで登ってきた。
父の調子がとてもよい
昨年のアイランドピークの順化に来たときはまるで、陸を歩く瀕死のペンギンのような感じだったが、今日は鹿とは言わないまでも、とても調子よく標高をあげることができた。
これまでの遠征や手術は無駄ではなかったなと、つくづく思った。
午後はテイネキッズキャンプに電話した。
4300m、ディンボチェからのメッセージ。
そういえば、今回、参加している子から手紙と家事でこつこつと貯めた、貯金を送ってもらった。
本当にうれしかった。また子供たちにあって、今回の遠征の話をみんなにしたいなと思う。
ディンボチェの裏山を登る、三浦雄一郎、三浦豪太、三浦雄大